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●戦火をかいくぐった少年時代 私は少年時代を満州で過ごしました。もっとも満州だけではなく,今の内モンゴルや中国の大同,張家口,石家荘などを転々としました。父が現地で兵隊に応召された上に,空襲が激しくなってきたのを機に,一家は満州の伯父を頼って終戦の一ヶ月前に再び満州に戻りました。 戦時中は「撃ちてし止まん」の時代です。学校では勉強よりも竹槍訓練ばかりでした。「十八歳,十九歳になったら国を守るために死ぬんだ」ということを教えこまれたのです。死ぬことは怖かったけれど,仕方がないと思っていました。 ところが,そうした状況は終戦と同時に百八十度変わってしまいました。そして,何よりもソ連軍が満州に入ってきて散々に荒らし回ったのです。この時の恨みは絶対に忘れません。 ソ連軍が去った後は中国の共産軍が入ってきて,国府軍と目の前で市街戦を始めました。本当に生きた心地がしませんでした。私たち一家は,食べていくために持っていた物を全部売ったり,町でお餅を仕入れてきて,それを売ったりしました。私が十五,六歳の頃のことです。 ●丁稚奉公の日々 終戦から二年近くかかって,私たち一家は命からがら日本に帰ってきました。引き揚げ船で佐世保に上陸し,切符を配給されて母の故郷の岡山に列車で向かいました。途中,広島を通った時に見た光景が今も忘れられません。とても大きな都市だと思っていたのに,何もない瓦礫の街と化していたのです。岡山も空襲を受けて焼け野原でした。 幸い,私たちより半年ほど遅れて父が復員してきたものの,家計が苦しかったので私は働き始めました。果物屋や呉服屋,本屋などいろいろな店の手伝いをやりました。果物屋では大きなみかん箱を山のように積んで,狭い町の中を自転車で走り回りました。途中,トラックとすれ違う時にひっくり返って何度も悔し涙にくれたものです。 一方では,私と同じ年齢の子がみんな学校に通っていました。学制が改革されて新制高校という時代です。私はこのままではいけないと一念発起しました。今の大検の前身の「専門学校入学者資格検定試験(専検)」を独学で勉強して受験したのです。そして旧制中学卒業の資格を取りました。 ただ,戦前とは学制が変わっていて,高校卒業には単位が足りませんでした。夜間高校に行きたかったものの,小さな町に夜間高校などありません。そこで同じような境遇の仲間たちと夜間高校設立運動をやった末に,とうとう夜間高校が開校したのです。私はその一期生として卒業し,ようやく高校の単位を取ることができました。今でもその夜間高校は続いています。 ●映画は私の先生 映画に触れたのはかなり早い時期からでした。もっとも戦争中はせいぜい戦意高揚映画です。「日本万歳,アメリカは鬼畜米英」というものばかりを見せられました。 終戦後に古い洋画や日本映画がリバイバル上映されると,どの映画館も観客が超満員でした。他に娯楽がなかったこともあるのでしょう。こんなにすごいものがあったのかと私も感動しました。 私は映画からいろいろなことを教えられました。一本の映画を観て,その原作を読んでみたくなることもしばしばでした。たとえば,アンドレ・ジイドの『田園交響楽』を観て,ジイドの原作を読んでみたり,映画の中では使われていないものの,ベートーベンの田園を聴いてみたりしたのです。 また,『赤い風車』というロートレックの映画を観て,ロートレックの絵に興味を覚えたこともありました。もちろん本物を見るわけにはいきません。画集を借りてきて一所懸命に見るのです。 さらには英語を学びたいと思って,映画のシナリオの対訳本を買ってきたこともありました。英語のせりふを丸暗記して,映画館では字幕を見ないで何回もせりふを聞くのです。そうやって私は英語を覚えました。 このように,私の人生の師というのは映画だと言っても過言ではないでしょう。
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