第58回 パティシエ 近藤冬子さん |
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●こんなお菓子作りがしたい 食品学校に入って二年目に,夏休みを利用してパリのホテル・ニッコーで研修を受けました。そこは当時,最先端のお菓子作りをしているところでした。お菓子はどれも繊細で,おまけに最高の材料で作るので味も格別です。それだけではありません。スタッフはシェフやスーシェフをはじめ,いろいろな階層に細かく分かれていて,若い人はそうした人に付いて雑用をこなしていました。何もかもがベルギーで研修を受けていた小さな店とは全く違ったのです。「自分のやりたいお菓子はこういうものだ」と大いに刺激を受けました。 そこで,ホテル・ニッコーのシェフに卒業後について相談したところ,「ブリュッセルだったら『ヴィタメール』がいいんじゃないか」とアドバイスされました。ヴィタメールというのは,ベルギー王室御用達の老舗高級菓子店です。早速,ヴィタメールに研修したいと申し込むと,幸いにも週一回ぐらいならばオーケーという返事をもらうことができました。さらにヴィタメールには一年間の研修制度があって,外国人が毎年何人か入っていました。そこで,シェフやオーナーに話を通してもらって,卒業と同時に就職することができたのです。 ヴィタメールには約三十名のスタッフのうち,女性は二人しかいませんでした。シェフからは「入った以上は男並みに働かなくては駄目だ」と言われました。スタッフは,たとえばパイ生地一筋何十年というようなベテランばかりです。私はそうした各部署の人たちに付いて,いろいろと手伝いながら技術を身に付けていきました。そして,一つ一つマスターするたびに「次はあそこの部署に入りたい」とシェフに申し出たのです。 もちろん,常に希望通りにはいきませんでした。希望が通らない時は粘り強く交渉しました。結局,相手にどれだけ言葉で自分の主張を伝えられるかが勝負なのです。おかげで私は,ベルギーで言葉がずいぶん上手になりました。パリではどうしても日本人の留学生が多いので,そこまではハングリーになれなかったのではないでしょうか。 この世界は実力社会です。若い人でもやる気のない人にはそれなりの仕事しかさせてもらえません。逆に,努力する人は地位も収入もどんどん上がっていけるのです。ですから,志の高い人はチャンスをつかむためにいつも一所懸命でした。 ●ムッシュ・ルノートルとの出会い ヴィタメールでは,取得した労働ビザが切れるまで一年半働きました。その後,パリでプロのための製菓学校「エコール・ルノートル」に通いました。たとえプロでも,長年やっているとマンネリ化してきます。そのため,最新の技術を身に付けるための学校なのです。なかには会社から派遣されて来ている人もいました。 私はこのエコール・ルノートルで,創設者のムッシュ・ルノートルから当時日本でオープンしたばかりのルノートル日本支店で働かないかと打診されました。といっても,私はその時はまだ二十七歳の駆け出しだったので大したポジションではありません。ただ,ムッシュ・ルノートルは若い人たちにどんどんチャンスをくださる方だったのです。 私は二度とないチャンスだと思いました。そこで,思いきってムッシュ・ルノートルに「日本で働く前に一年間パリで研修をさせてください」と申し出ました。すると,ムッシュ・ルノートルはオーケーしてくれたのです。その縁で私はパリのルノートルでは学校も含めて一年半ぐらいいました。それから日本のルノートルに勤務したのです。 ルノートルには従業員が三百人ぐらいいました。お菓子の店は従業員が数人というところがほとんどですから,ルノートルはまさにトップクラスの規模だったのです。そして,当時は私もまだ若かったので,最先端の技術を使ったお菓子作りを見たいという気持ちがありました。 また,ムッシュ・ルノートルという方が非常に魅力的な人でした。職人からスタートして,経営者になってもその気持ちを常に持ち続けている方だったのです。私には「自分の職業に対して誇りや情熱,夢を持ちなさい」というアドバイスを与えてくださいました。それまでパティシエというのは,一般的にはどうしても“裏方”というように捉えられがちでした。ところが,今や日本でもパティシェは大きくクローズアップされるようになってきたのです。フランスの職人と対抗できるような優秀な人もどんどん出てきています。「将来はパティシエになりたい」という子どもたちも珍しくなくなってきました。 実際の現場の仕事は非常に厳しいものです。毎日の単純な作業の中で,ミスをして怒られて落ち込んでも,誰かの一言で救われて,また目標を持って続けていけるということの繰り返しです。ですから,このように夢を持たせてくれる人たちと出会えたことは私にとって大きな心の糧になりました。
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