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●ベーゴマもメンコも下手だった 当時の足立区は田んぼと畑ばかりでした。東京といっても,実際には農村地帯のような雰囲気だったのです。 また,家の隣近所には職人さんがたくさん住んでいました。うちはペンキ屋ですし,目の前の家が大工さん,裏の家がそば屋さん,その裏が螺鈿漆器といって貝殻をきれいに装飾する職人さん。サラリーマンの家庭はなかったですね。どちらかというと,子どもには勉強よりも腕に職をつけさせるという家が多かったと思います。 ぼくは,子どもの頃から不器用でした。ベーゴマもメンコもビー玉も下手だし,野球をやってもグローブに入ったボールを落としてしまうほどでした。ですから,家で本を読んでいる方が多かったのです。対照的に,弟はそういうことが得意で近所の子どもたちのリーダー的存在でした。 学校の科目では,やはり体育が苦手でした。小学校の先生から「大ちゃん,大学でも体育はあるんだから,ちゃんとやらなくちゃ駄目よ」と言われたことを今でも覚えています。他の教科の成績は五段階評価でほとんどが五でしたが,体育だけは二だったこともありました。 ●母の持論「貧乏悪循環」 ぼくの母は,十三歳で千葉から東京に出てきて奉公しました。若い頃から非常に苦労してきた母には,「貧乏悪循環」という独特の持論がありました。教育を一つの投資と見ていて,「学校を出ていないからいい就職先がない。いい職に就けないから収入が少ない。収入が少ないから学校に行けない」と考えていたのです。「勤め人になるのがいいんだよ」とよく言っていました。 そして,子どもの学習意欲を引き出すのがとても上手でした。「北野の家は優秀なんだ。頭がいいんだ」と,完全に子どもたちを洗脳していたのです。こう言うと,エリート意識だとか出世第一主義だなどと,変に誤解されるかもしれません。でも,弟を見ていると,あれだけ忙しいのに仕事量を減らさずに走り続けているのは,そうした母の洗脳を受けてきて,「第一線で活躍したい。そのために努力しよう」という意欲を常に持ち続けているからだと思っています。 やはり,親は子どもをできるだけほめて自信を持たせて,ある意味では洗脳してもいいのではないでしょうか。それから,メリハリです。叱った後は必ずケアをしなければなりません。その点,母はうまかったですね。 母は時々,学校帰りのぼくを駅で待っていて,寿司屋に連れていってくれたのです。残念ながら我が家の経済状態では家族全員で寿司屋には行けませんでした。ですから,「みんなには内緒だよ。勉強の方もがんばるんだよ」と言われると,てっきり自分だけが特別扱いされていると思って,「うん,がんばるよ」と感激していました。でも,後からわかったのですが,実は兄弟みんながそうやって連れていってもらっていたのです(笑)。
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