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●人一倍の恥ずかしがり屋 生まれは鹿児島の吹上浜です。両親はどちらも鹿児島出身で,私が生まれる時には東京の中華料理屋に住み込みで働いていました。ただ,そこは子連れ不可ということで,私は三歳まで鹿児島にある母の実家の祖母に預けられました。その後,三歳の時に私は親戚のおじさんに連れられて上京し,両親と四畳一間のアパートに生活するようになりました。 小学生の時はとても恥ずかしがり屋で,授業中には手を挙げられませんでした。先生に指されると顔が真っ赤になってしゃべれなかったです。 絵を描いたり,文章を書いたりするのが好きだったので,小学校では図工と国語が得意でした。中学校では美術ですね。苦手なのは理数系でした。 小学校時代の将来の夢は漫画家か小説家でした。漫画はかなり熱心に取り組んでいて,当時は誰も教えてくれなかったけれど,『漫画の描き方』という本を買ってきて,ペンは烏口から全部そろえて,墨汁とケント紙も買って,コマ割りまでやるほど本格的に描いていました。 ●十代で結婚,出産,離婚 高校時代はいわゆる不良と呼ばれて,結婚,出産,離婚を十代で経験してしまいました。それはとてもつらい経験で,挫折と絶望の中で自分のあるべき場所をずっと探し続けていました。家庭があまりしっかりしていなかったので,母はそうした娘に対してどうしていいかわからなかったでしょうし,父は外に出ていたということもあって,自分のエネルギーをどこに向ければいいのかをきちんと教えてくださる『人生の師』が,親や学校の先生,先輩を含めて,私の周りにはいなかったのです。 ただ,中学一年生の担任で,唯一,私のことを見ていてくれた先生がいました。夏休みに,私が鹿児島の母方の実家に遊びに行くのを勧めてくれて,鹿児島までの切符と油絵の道具をくださったのです。そして,夏休みに私が鹿児島にいる間もわざわざ私のことを訪ねてくださいました。先生の実家は熊本だったので「帰省したついでに寄ったんだよ」とおっしゃっていましたが,熊本から鹿児島までは「ついで」という距離ではないですよね。その時は先生の温かさが伝わってきました。でも,夏休みが終わって東京に戻ったら,私はまた元の不良少女に戻ってしまったので,先生には「申し訳ありません」という気持ちがずっとありました。後に自分の道を進むようになってから,毎年,「子どもがこんなに大きくなりました」とか「今はこんなことをしています」という感じで,年賀状のやりとりをさせていただいて,やっと少しだけ恩返しができたかな,と思っています。
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