第49回 女流棋士 高橋 和さん

二〇〇三年四月十八日,第三十期女流名人位戦A級リーグ戦にて(写真提供:サニーサイドアップ)
道場通いの小学生時代
 小学生の時は,我が家では平日の夜八時から九時が将棋の時間と決められておりました。私はテレビ好きで,いつも八時まではテレビにかじりつくように観ていたのですが,八時になるとどんなに観たい番組があっても必ず母親にテレビを消されてしまうのが常でした。
 八時から九時までの一時間は,詰め将棋の本を解いたり,父と指したりしていました。
 道場に通い始めたのは小学校三年生からです。週末になると,土曜日は午前中に学校がありましたので午後から道場へ行き,日曜日も午前中はアマチュアの方の家へ勉強に通い,午後から道場へ通っていました。
 夏休みも当然ながら,毎日,道場へ通いました。私には道場に通うのは当たり前のことでした。小学生が学校へ通うのに疑問を持たないのと同じように,私は道場に通うことに対して何か特別なことをしているという気持ちはなく,生活の一部だったのです。母が申すには,私はどんなに雨の強い日でも,体調が悪そうな日でも「行かない」とは一度も言わなかったそうです。
 道場には同じ年頃の男の子がひとりかふたりいたぐらいで,あとはおじさまたちでした。当時は禁煙とか分煙という時代ではありませんでしたから,道場の中はたばこの煙がたちこめていて,家に帰ると,いつも洋服がたばこ臭い小学生でした(笑)。小さな女の子が道場に来るのはめずらしいことでしたので,私の姿を見つけると「教えてあげるからこっちへいらっしゃい」といった感じで,みなさんには大変かわいがっていただきました。
 小学生の頃は,将来は棋士になるとは全然思っていませんでした。小学六年生の時に,両親と私の師匠(佐伯昌優八段)に勧められて女流育成会という,プロになるための養成機関に入ったのですが,実は私,そこがプロになるための機関だということを知らなかったのです。女流育成会は千駄ヶ谷の日本将棋連盟の中にあるのですが,それまで女の人が将棋を指すのをあまり見たことがなかったからです。ちなみに,小学生の時の将来の夢は,「外国に住みたい」でした(笑)。


十四歳でプロデビュー
 女流育成会は,現在,A,Bの二クラスに分かれていて,四月から九月,十月から三月までの年二期リーグが行われ,Aクラスの成績優秀者一名が女流二級に昇進してプロになれます。私が入った当時は二クラス制ではなくて,一年間リーグ戦を行って,その中の上位二名がプロになれるという形でした。私は小学六年生の時に育成会に入ったのですが,その年は最終日の前日まで私は二位だったのです。ところが,最終日に逆転されて三位になってしまい,その年はプロにはなれませんでした。
 プロになったのは十四歳の時です。当時,最年少でした。プロになれば当然,一社会人という面も持ち合わせるので,平日に対局があると,学校を休んで通勤ラッシュで混雑する電車に乗って出かけなければなりませんでした。また,夏休みには普段の対局以外の,イベントなどの仕事がどんどん入ってきました。そうした仕事を通して,いろんなものを見ることができて楽しかったです。
 プロになった当初は,プロというものを全く意識していませんでした。意識し始めたのは一,二年たってからです。それまでは自分ひとりで終わっていた自分のゲームが,ファンの方が応援してくださるようになって自分だけのものではなくなってしまい,自分ががんばっている姿をファンに見せなくては,という気持ちに変わっていきました。ただ,そういう気持ちが増えれば増えるほど,プレッシャーも増えて,プロとしてやっていくことについての悩みも多くなりました。やはり勝たなければ意味がない世界ですので,わかりやすいけれども,その分,厳しさもあります。周りの方は勝敗表の黒丸か白丸かという結果でしか見てくれないので,どんなに対局の内容が良くても,最後にミスをして負けた場合,やはり負けは負けなのです。「自分ではちゃんとやっている」と,どれほど言っても何の意味もないですから,自分の努力を証明するには結果を出すしかありません。
 対局前に,極度のストレスと緊張感による自律神経失調症に悩まされたこともありました。でも,どんなにつらい状況でも将棋をやめようとは思いませんでした。私は何に対しても「負けたくない」という気持ちが強いので,ここで逃げたら自分自身にも負けてしまうと思ったのです。応援してくださる方の期待や思い描く棋士像に応えて,そういうものに自分を当てはめていかなくてはいけないと考えたのです。


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