第48回
早稲田大学エジプト学研究所所長
吉村作治さん
2003年9月号掲載


PROFILE
早稲田大学教授(工学博士)/早稲田大学エジプト学研究所所長。一九四三年,東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。同大学非常勤講師,助教授を経て一九九六年より人間科学部教授。子供の頃からエジプト考古学者にあこがれ,早稲田大学入学後の一九六六年に日本で初のエジプト調査隊を組織し,以来三十年以上にわたり調査・発掘活動を行う。これまでの数々の発見により国際的に高い評価を得ている。主な著書に「痛快!ピラミッド学」(集英社インターナショナル),「吉村作治の古代エジプト講義録(上・下)」(講談社),「夢,一直線」(講談社ヒューマンブックス),「古代エジプト埋もれた記憶」(青春出版社)などがある。

両親はエジプト行きには反対しませんでした。子供がやりたいことをハラハラして見るのが親の役目なのではないでしょうか。
図書室で将来の夢を発掘!?
 運動神経があまりよくなかったので,小学校時代はみんなといっしょに野球などはできませんでしたね。昔は運動ができない子というのはいじめられたんです。いじめられるのがいやだから図書室によく行きました。別に本が好きだから図書室に通っていたわけではないんです。
 エジプトに興味を持ったのは小学校四年生の時です。図書室でイギリスの考古学者,ハワード・カーターの発掘記『ツタンカーメン王の秘密』という本を読んで「エジプトの考古学者になろう」と思いました。当時はもちろんテレビもないし,僕も普通の小学生でしたから(笑),それまではエジプトについては全く知りませんでした。
 ただ,「エジプトに行きたい」と思っても,小学生ですから具体性はないですよね。将来どういう職業に就くかなんて,そんなに具体的にわかるわけがないですよ。担任の先生に「エジプト考古学者になりたい」と言ったら,「学者になるのならば東京大学へ行かなければだめだよ」と言われたので,それからは一所懸命勉強しました。その先生の指導は非常によくて,学者になるためにはいい大学に行かなければならない,いい大学へ行くためにはいい高校へ,いい高校へ行くためにはいい中学へ,というようにうまく進路を指導してくれたわけです。なかなかいい先生でした。


大学でエジプト研究
 早稲田大学に入ると,学生仲間で「オリエント研究会」というサークルを作りました。最初は「エジプト研究会」という名称でしたが,人が集まらなかったのでもう少し地域を広げようということで「オリエント研究会」という名前にしたのです。主に図書館でエジプトの本を読んでいました。もちろん洋書です。当時は今と違ってコピーがないですから,必要なところは手で書き写さなければならないので大変でした。ただ,逆に言うと手で書き写したからよく覚えたというのはあります。
 僕が大学二年生の時から,学費値上げ反対闘争で学校はほとんど閉まっていましたから,学校の勉強自体がなかったです。今の大学の感じとは違います。デモの学生がストライキをして校門を閉めていましたから,外で勉強していました。僕はデモには参加しませんでした。高校生の時に六十年安保の反対闘争をやって,ああいうものがいかにくだらないかということを知っていましたから。だいたい大学に入ってから運動やっている人はちょっと遅れています。僕は中学生の時に『資本論』を読んでいましたよ。
 初めてエジプトに行ったのは一九六六年の九月です。当時は飛行機で日本とエジプトを往復すると四十二万円かかりました。今の四十二万円よりももっと大金です。そこでタンカー会社に頼み込んで,甲板洗いを条件にタンカーで往復させてもらいました。十日ぐらいでクウェートに行き,そこからはバスでカイロに入りました。日本からカイロまでの日数は二週間ぐらいですね。

 大変だったのはお金の工面だけではありません。日本とは全く違う生活とか,言葉とか,向こうの政府との交渉とか,それはもういっぱいありました。でも,初めてエジプトを目にしたときに「これならやっていける」と思いました。最初に訪れたのは九月でしたから,暑いことは暑いんです。でも,船で行きましたから,日本を離れてだんだん暑くなっていくのがわかっていましたし,だいたい新しい世界に入っていくのに気温なんて気になりませんでした。
 いっしょに行った仲間とは,いったん日本に帰ってきまして,他の人は就職したりしましたが,僕だけは今度は飛行機でエジプトへ行って,カイロ大学の聴講生となって向こうで本格的に研究を始めたのです。
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