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●小学校の入学祝いが落語全集 私は長野県の飯田市に生まれましたが,この飯田というところは信州の小京都とも言われたくらいで,ちょっと小粋なところなんです。当時は芝居小屋もあって,おまけに家が色街の中心部にあったものだから,お風呂帰りの芸者衆が昼間から往来を歩いているわ,三味線や太鼓の音がのべつまくなしに聞こえてくるわで,人間をやわらかくするには最高の環境でしたね(笑)。 私は四人兄弟の末っ子で,虚弱体質というか病弱で,お袋の尻にへばりついてばかりいました。このお袋は人一倍教育熱心で,兄弟四人とも小学校に入ると習字の塾に通わされました。現在,私は寄席文字の書家として生業を立てているわけですが,その頃は習字の稽古が嫌で嫌で仕方がなかったですね(笑)。 私が落語好きになったのは親父の影響です。親父は飯田で一番大きな呉服屋の支配人をしていましたが,「酒も芸者遊びも芸事もなんでもござれ」といった人で,私の小学校の入学祝いにくれたのが,何と落語全集。いまにして思えば自分が欲しかったんじゃないかと思います(笑)。ところがこの落語全集,漢字すべてにルビがふってあるものだから,子どもでも読めるわけです。もう面白くて,学校から帰ってくると一目散に手にとって読みふけりました。結果,ひょうきんものの落語少年ができてしまったわけです。自分でいうのもおかしいですが,小・中学校とクラスの人気者でしたね。ところが私をのぞいた他の兄弟たちはみんな真面目で,小学校や高校の先生になった。私だけが親父の血をひいたんです(笑)。 ●片道八時間半かけての寄席通い 高校生になると,ラジオの落語放送だけでは飽き足らなくなり,寄席にどうしても行きたくなった。それで土曜日,学校が終わると中央線の夜行列車に乗り,片道八時間半かけて新宿に向かうわけです。当時は蒸気機関車ですから駅に着いたときには石炭の煤で鼻の頭は真っ黒。列車が新宿駅に着くのが朝の四時半で,末広亭の開場は午前十一時。仕方なく開演まで新宿をぶらぶらして時間をつぶすわけですが,あの頃の新宿は伊勢丹デパートと闇市があるだけで,ほかには何にもなかった。コッペパンひとつ持って末広亭の開場とともに入り,昼席から夜席までずっと聴いていて,寄席がはねると松本行きの夜行列車に飛び乗るわけです。朝,家に着くやいなや急いで制服に着替えて高校に向かうんですが,授業中は眠くて眠くて仕方がなかった(笑)。そんなことがたびたびでしたから,いつしか末広亭のキップ切りのおじさんや従業員の人たちにも顔を覚えられ,「坊や,よく来るね。どこからくるの? 信州? よし,次からは夜席分はタダでいいよ」なんていうようにまでなりました(笑)。 それほど寄席に通ったのには訳があって,当時のラジオの落語放送といえば,人気者だった金馬の落語ばっかりだったんです。もちろん金馬もいいんですが,生で聞いた志ん生や文楽,円生の語り口のすばらしさにすっかり魅了されてしまったんです。 ●志ん生の追っかけとなる 東京の大学に入れば好きな落語が好きなだけ聞けると明治大学の商学部に入りましたが,この大学を選んだのは,上の兄貴が卒業生で,角帽も教科書もすべてお下がりですむというのが一番の理由ですね(笑)。もとより勉強しようなんていう気持ちはさらさらない。実際,寄席通いとアルバイトの合間にちょこっと授業に顔を出すくらいのものでした。もっぱら熱中したのは志ん生の追っかけです。志ん生の出る寄席はもう片っ端から聞きまくりました。志ん生が日暮里に住んでいるというので,下宿を近くに移してみたりもした。だからといって恐れ多くて話ができるわけではないんですが,銭湯なんかでたまに一緒になることがあって,そんなときはドキドキしました。よく「左近さんは落語研究会には入っていなかったんですか?」なんて聞かれるんですが,あの頃,落研なんていうもはどこの大学にもまだなかったんです。 そんな落語三昧の生活を謳歌していましたが,いいことはつづかないものです。大学二年のときに結核になってしまった。ある日のこと,志ん生を聴いていい気持ちで下宿まで歩いてきたところ,突然喀血したんです。翌日,近くの保健所でレントゲンを撮ると,両肺が蜘蛛の巣が張ったようになっている。医者が言うには「君の肺には金鵄勲章という空洞がふたつある。このまま東京にいたら死んじゃうよ。信州は空気がいいから明日にでも帰りなさい」と。もう目の前が真っ暗になりました。後から考えると栄養失調が原因です。食う物も食わずにアルバイト代をすべて寄席代やカストリ代に回していましたからね。
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