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●三百六十五日が遊びだった ぼくは長野県茅野市の宮川というところに生まれました。当時はまだ諏訪郡宮川村と言っていて,山々に囲まれた信州の典型的な集落です。親父は学校の先生をしていましたが,日曜日は決まって農作業,おかげで田んぼの草取りなんかも随分手伝わされました。信州の冬は寒さが厳しくて,卵も牛乳もお酒も台所の床下にしまっておかないと凍って割れてしまう。だから冷蔵庫が我が家にやってきたときは,これで凍らずに済むと家族一同大喜びしたことを覚えていますね(笑)。 我が家から小学校までの道のりは四キロで,歩いて約一時間。毎朝七時前には家を出ていましたが,別につらいとも何とも思わなかった。日本中そういうものだと思っていたんです(笑)。おかげでからだだけは丈夫になりました。大学教授なんていう仕事をしていると「本好きの子どもだったんですか?」なんていう質問をよく受けるんですが,そんなことはまったくなくて,本なんて大学に入るまでろくに読んだこともない。学校から帰ると縁側にポンとカバンを放り投げ,野山へと一目散に駈けだしていましたね。家でカバンを開けたことなどないものだから,「開けないカバンなら学校に置いときなさい」とお袋が怒ったところ,本当に置いてきてしまい,非常に困ったそうです。ぼくはまったく覚えていないんですが(笑)。 しかし,テレビも無いでしょう。ラジオは親父の手作りのがあったけれど,これがまたよく聞こえない(笑)。家の中にいたって面白くないですからね,外で仲間と遊ぶしかないわけです。栗やアケビを採ったり,畑で土器片や黒曜石の矢じりを探したり,トンボやハチの子を捕ったりと,採集活動イコール遊びのようなものでしたね。このハチの子捕りですが,失敗して刺されると悲惨な結果が待っている。刺されたヤツの刺された個所に,みんなでションベンをかけるんですが,首筋なんか刺されたときはかけられる方もかける方も大変です(笑)。しかし,危険を冒してでも挑む価値がありました。トンボや蝶など,いろんな虫を食べてみたけれど,うまさではハチの子にかなうものはないですからね。 ●工学部に入ってから文学に目覚める 高校は地元の進学校といわれる学校でした。一応,野球部と美術部に所属していましたが,そんなに熱心に活動していたわけではなかったですね。遊びの延長線上のようなものです。高校二年生になると,文系,理系と,志望進学のコースごとに学級が別れるわけですが,もう迷わずに理系を選びました。本を読むのが大嫌いでしたからね(笑)。ただ,純粋な理系には興味がない。まあ,絵を描くのが好きだったということもあって,建築科を受験することに決めました。また,小学校二年生のときですが,それまで住んでいた寛保年間に建てられた茅葺き屋根の家を建て替えたんですね。一年間,カンナくずの片づけやら壁土用の粘土踏みなんかをさせられながら,間近で大工仕事を見ていたんですが,これが子ども心にも面白かったという記憶があったんですね。 東北大学の工学部に入りましたが,最初の二年間は建築関係の授業は無くて,数学とか物理とか化学とか,工学部一般の授業なわけです。これが本当につまらない(笑)。それで仕方なく文学書なんかを読み始めたところ,これがめちゃくちゃ面白いわけです。ふつうだったら中学,高校で読むような本から何から,もう片っ端から読み漁りました。ぼくの場合,工学部に入ってから,文化系に目覚めたんですね(笑)。 卒業設計では,仙台市街を廃墟と化し,街の中央を流れる広瀬川に宇宙船のような橋をこつ然と架けるという作品を描いた。その頃,下宿が広瀬川近くにあり,一晩中本を読んでは,明け方にあきると河原を散歩するという毎日を送っていたんですが,都市に痛めつけられた川が日に日に弱っていくのがわかったんです。ところが当時は大気汚染ばかりが話題になって,川の汚染に関してはマスコミも黙殺状態。それで川と橋の再生をテーマにしたわけです。この作品は,東京で開かれた全国卒業設計展に東北大学代表として出品されましたが,文化的なものに目覚めてしまったぼくは,現実的な設計からもう心が離れていて,結局展覧会も見にいきませんでした。
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