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●豆行司の少年時代 私は佐賀県の神埼町というところに生まれました。吉野ヶ里遺跡のそばの小さな町です。素人相撲の盛んな土地で,昔は宮相撲といっていましたが,神社の境内や学校の校庭の土俵を使っては,力自慢が集まっての相撲大会が年中開かれていました。物のない時代ですから,娯楽といえば相撲ぐらいしかなかったんです。相撲は道具がほとんどいりませんからね(笑)。 私の父親も若い頃は相撲を取っていまして,もう三度の飯よりも相撲が好きという人間でした。終戦後,町で開かれた大相撲の勧進元も何回か引き受けたくらいです。おかげで小学校四年生のときから行司をやらされました。子どもの行司は豆行司といいまして,大人の相撲を小さな子どもがさばくわけです。豆行司の数は少ないですから珍しがられまして,長崎,熊本,福岡と,九州中の相撲大会に呼ばれては行司をしていました。海軍は戦時中相撲が盛んで,その人たちが戦後,各企業に入って相撲部を創ったわけです。そのため企業対抗の相撲大会が九州各地で頻繁に開かれていたんですね。 こちらは好きで行司をやっていたわけではないんです。人の前で大きな声を出すのが恥ずかしくて,いやでいやで仕方なかったんですが,父親の命令ですからどうしようもなかったんです。中学生になって,豆行司というには大きくなりすぎ,やっと行司をしなくてすむようになったときには本当にほっとしたものです(笑)。 ●高校を無理矢理退学させられる そのまま地元の高校に入りましたが,二年生のときに父親が私に,「明日,高校に退学届けを出してこい」というわけです。 「二十二代の木村庄之助が弟子を探していると聞いたから,おまえを弟子に出すことにした。先方とはもう話をつけてきた。男の約束だ。いまさら破るわけにはいかない」 これにはびっくりしました。いまの親には考えられないことだと思います。子どもが高校を中退したいといっても,無理矢理にでも通わせるのが世間一般の親ですからね(笑)。私が言葉も出ないでいると,「おまえがいやなのはわかっているが,おれは二十二代庄之助だから出すんだ。他の行司なら可愛い倅を出すものか」と。この二十二代庄之助は名人といわれていた人で,父親は以前から尊敬していたんです。 こうなったら私はあきらめるしかありません。一度こうと決めたら絶対に考えを曲げない人だということは,子どもの頃からわかっていましたからね。「今日,学校で先生に殴られて廊下に立たされた」なんて泣き言をいおうものなら,「おまえが悪いから殴られたんだ」と,もう一発父親から殴られたくらいです。それくらい厳しくて怖い父親だったんです。もっとも相撲だけは別でした。佐賀市に相撲の地方巡業がきて,私が行きたいというと「おお,行ってこい,行ってこい」と,学校をさぼっても文句のひとつもなかった。それぐらい相撲の好きな人でしたね(笑)。
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