第15回 日本酒評論家 篠田次郎さん

江戸時代には酒道というのが本当にあったんです(笑)
うまい日本酒にみんな驚いた
 一度,吟醸酒の味を覚えてしまったら,まずい酒は飲めません。私は知り合いの造り酒屋に頼み込んではまとめ買いをしていました。当時,趣味でジャズバンドを組んでいたんですが,メンバーはウイスキーしか飲まない。「日本酒なんてくさくてまずいし,翌日は必ず頭が痛くなる」と見向きもしない。ところが私がもっていった酒だけは喜んで飲む。それどころか「篠田さん,またあの酒持ってきてよ」とリクエストまで出る始末。
 それを見ていたスナックのマスターから「どうして篠田さんの持ってくる酒はあんなにうまいのか。うちでその酒を飲む会をやってくれないか」と頼まれたんです。そのマスターがお客さんに出した案内状が「幻の日本酒を飲む会」だったんです。そのときは,よもやその会がその後二十五年もつづき,例会も三百回を超すことになろうとは思いませんでしたね(笑)。
 第一回目は十六,七人くらいでした。私は吟醸酒を十本ほど持っていったと思います。これが大評判で,すぐに第二回,第三回をやってくれという。そうはいってもそんなに簡単に手に入る時代じゃありません。自分が設計した酒蔵に頼んだり,またその紹介で別の酒蔵に頼んだりと,八方手を尽くしては吟醸酒を集めて会を開きました。商品になっていない酒を分けるのは税法上の手続きもあって造り酒屋としても難しいんです。会ではその日の最後に,吟醸酒の造り方や歴史などの解説もしました。
 そのうちに「あの会に行けば日本酒とは思えないおいしい酒が飲める」といううわさが口コミで広がりだした。会員もいつしか数百人にまでふくれあがりました。会員にはマスコミ人など社会的に発信力のある人が多かったので,朝日新聞やNHKにまで大きく取り上げられるようにもなった。これに驚いたのが地方で真面目に酒造りに取り組んでいた造り酒屋の経営者たちでした。大手メーカーに圧迫されながらも生き延びる道を模索していた彼らは,吟醸酒に光明を見いだしたのです。私の肩書きにはいつしか建築家以外に,吟醸酒アドバイザーというものまで加わりました。
 造り酒屋の経営者たちはこれまで吟醸酒を市販することなど考えたこともなかったわけです。そこで,いざ市販するとなると,いったい値段はいくらに設定したらいいのか,どうやって売ればいいのか,どんな味が好まれるのかと,多くの造り酒屋が私にアドバイスを求めてくるようになりました。私も腹をくくりました。「一度乗りかかった船だ。こうなったら日本人すべてが吟醸酒という言葉を知り,その味を知り,日本中どこの飲み屋に入っても当たり前のように吟醸酒が飲めるような世の中にしよう。そのかわり造り手側も我々会員をうならせるような吟醸酒を作ってくれよ」と(笑)。
 その結果は? 皆さんご承知のようにごらんの通りになりました。もちろん私だけの力ではありません。私はそのお手伝いをしただけにすぎません。

吟醸酒との出会いが人生を豊かにしてくれた
 今年の十一月に二十五年つづいた「幻の日本酒を飲む会」を閉会しました。なぜなら吟醸酒は幻ではなくなったからです。「せっかくの会をもったいない。あなたが酒道家元になって会員に段位や免許皆伝を与えるようにしたらいい」という人もいましたけれど(笑),酒を飲むときくらい平等で飲みたいじゃないですか。よく会が二十五年もつづきましたねと聞かれますが,会には不文律の決まりがあったんです。
 ひとつ目は,ただ酒は飲まない。ふたつ目は,利き酒能力は問わない。三つ目は,あの酒がうまかったと決めつけない。これはまったくのパロディーで,世の多くの酒の会はこれの裏返しが多かったんですね。人数を集めて安く酒を飲む。利き酒能力や酒の知識で参加者の順位を決める。あの酒が一番だと自慢する。そんな会が長つづきするわけがありません。教養と知識は別なんですよ。
 先年,会員の中から経済企画庁の政務次官と事務次官が生まれました。彼らは若いときからの会員でした。特に糠谷事務次官は霞が関の吟醸酒ブームを作った人です。そうやって各地に吟醸酒のオピニオンリーダーがいて,全国に吟醸酒のコロニーがぽつんぽつんとできていき,いまやっと定着したといえるでしょう。
 私はふつうの日本人よりちょっと早い時期に吟醸酒に巡り合えたおかげで,豊かな人生を送ることができ,社会的な評価も受けることができました。もっとも多くの大手酒造メーカーからは忌み嫌われましたけどね(笑)。まさか本屋さんの棚に自分の書いた本があんなに並ぶことになるとは思ってもみませんでした。
 数年前に先天性の網膜色素変性症で完全失明してしまいましたが,まだまだやり残していることがあります。明治から現在までの吟醸酒の全歴史を書き終えていないのです。外をひとりで取材して書くことは不可能になりましたが,パソコンのキーボードを叩くことはできますからね。これこそ正真正銘のブラインドタッチですよ(笑)。
(構成・写真/寺内英一)
<<戻る
3/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.