第13回 紙切り芸人
林家正楽さん
2000年10月号掲載


PROFILE
はやしや・しょうらく 昭和二十三年東京都目黒区出身。高校卒業後,会社勤めの後,四十一年二代目林家正楽に入門。四十五年林家一楽として初高座。六十三年二代目林家小正楽を襲名。寄席を中心に活動。平成十二年九月,三代目林家正楽の大名跡を襲名。九月下席の上野鈴本演芸場を皮切りに,新宿末広亭,浅草演芸ホール,池袋演芸場と四十日間にわたり襲名披露興行を行なう。落語家以外がトリをつとめるのは五十一年ぶりで,紙切りでは史上初。著書に「イラストテクニックミニ専科 紙切り編」がある。国立演芸場花形新人演芸会金賞,若手演芸大賞色物部門奨励賞受賞。

インタビューを受けながらもすらすらと紙切り
あっという間に完成した切り紙絵二点
演芸好きの子どもだった
 小学生の頃は通信簿に「落ち着きがない」とよく書かれていました。授業中の私語が多い。発表能力がない。ずーっとそうでした(笑)。だからといって物真似をして友だちの笑いを取ったりするようなクラスの人気者でもない。がやがやとうるさいけれどひとりで何か言ってみろといわれると黙ってしまうような,どちらかといえば内気な性格でした。
 ただ,演芸はその頃から大好きでしたね。ラジオの演芸番組が好きでいつも夢中になっては聴いていた。当時,渋谷の東横百貨店では日曜日ごとに屋上で演芸会のようなものをやっていました。漫才とかコントとか曲芸とか。それを毎週観にいくのが楽しみでしたね。  中学生になってどうしても寄席に行きたくなった。それでもああいうところは子どもだけで行ってはいけないところだと思っていましたから,ぼくのほうから親に無理矢理頼んで連れていってもらったんです。新宿の末広亭でした。たいていは親に連れられていくうちに演芸が好きになったという芸人さんが多いんですけれどね(笑)。
 うちの親は演芸は嫌いじゃないけれど,積極的に観にいこうというほどではなかったですね。ふつうのサラリーマン家庭でしたから。ただね,父親が夜寝るときに枕もとで落語をよく話してくれた記憶があるんです。柳家金語楼の兵隊の落語でした。当時,ものすごく流行っていたんです。あれはなかなか面白かった。人は育った家庭環境によって生き方が決まるなんてことを言う人がいますが,あれは関係ないですね。だってぼくと一緒に父親の落語を聴いていた兄は,その後小学校の先生になりましたからね。ついこの間までロンドンの日本人学校に赴任していたんですが,帰ってきて今は教育委員会にいる。ぼくの生き方とはまったく正反対ですからね(笑)。


バイトしながらの修業時代
 工業高校を卒業して,ある会社に勤めたんですけれど,仕事が本当につまらない。転職したくて仕方がなかった。就職して半年ほど経った頃,当時も寄席にはちょくちょくいっていたんですが,ある日,先代の正楽師匠の紙切りを観ていたときに,「あっ,これだ! これをやろう」とひらめいたんです。理由はいまもってわからない(笑)。
 さっそく師匠に弟子入りを直訴しました。師匠からは「この世界は食べていけるかわからない。サラリーマンのほうが楽だよ」と諭されたんですが,こっちは「それでもなりたい」の一点張り。師匠からは「弟子にはできないが,紙切りは教えてあげるから仕事が休みの日はうちに来なさい」との返事をもらうことができた。
 当時,うちの師匠はまだ小正楽の名前で,初代の正楽が亡くなって日も浅かったので,本格的に弟子をとるという状況ではなかったんです。それでも天にも昇るほどうれしかったですね。師匠にとってはぼくが第一号の弟子です。
 それからは会社に勤めながら,日曜日や夜に師匠の家に通って稽古するようになった。仕事は相変わらず嫌だったんですが,高校推薦で入った会社ですから一年間は勤めるべきだろうと,翌年の三月を待って退職しました。とはいえ働かなければ生きていけませんからね,アルバイトを始めました。早稲田大学の生協の書籍部で働き始めたんですが,本に囲まれての仕事ですからね,働きながら勉強もできてとってもいい仕事場でした。途中からは紙切り芸人としての仕事も始まりましたが,何せ仕事量が少ない。そうこうしながらも結局は丸五年働かせていただきました。

つづきを読む>>
1/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.