第5回 イラストレーター
長尾みのるさん
2000年2月号掲載


PROFILE
昭和四年六月四日生まれ。東京都出身。早稲田大学工芸美術研究所にて、舞台美術、西洋服装史に熱中。卒業後、洋裁学校の講師を勤めながら、舞台美術家の道を模索するが活動の場がなく、二十八年ブラジルに脱出。その後、ヨーロッパをまわり、三十二年に帰国。以来、イラストレーター、エッセイスト、旅行作家として活躍をつづける。これまでに手がけた書籍のカバーイラストは千冊以上。著書として「視覚のいたずら」「にぎやかな視点」「窓の向こうはホワイト・アングル」「明日もパフォーマンチックに」「タイムレス・クルーズ」など二十数冊。講談社出版文化賞受賞。読売国際漫画大賞選考委員。

洋裁学校では女生徒にもてたんですよ
子どもの頃のあだ名は青びょうたん
 昭和四年に東京の京橋で生まれました。家業は製本業で、豪華本などの装幀関係を作っていました。子どもの頃は病弱で、小学校時代に付けられたあだ名が青びょうたん(笑)。友だちが戦争ごっこやチャンバラごっこをしているときも、ぼくは姉とお人形さんごっこをして遊んでいた。軍国時代に体が弱いということはみじめなんです。そういうこともあって絵を描くことが好きになったのかもしれません。当時の男の子は絵を描くといえば戦艦や戦闘機なんかの絵を描いたものですが、ぼくは、楽しく食事をしているといった家族団らんの絵ばかり描いていた。母親を五歳のときに亡くしましたから、家族のぬくもりのようなものに飢えていたのかもしれません。
 そんな子どもだったにも関わらず、陸軍特別幹部候補生になってしまった。昭和四年生まれは最後の候補生です。戦争が始まり、殺風景になった銀座通りを歩いていたらひときわ目立つポスターがある。それが候補生募集のポスターだったんです。「そうだ、ここに入ればいい食事にありつける」と。配属されたのは通信関係で、軍事訓練よりも電信や英文タイプなどの勉強ばかりさせられて辟易しました(笑)。余談ですが、兄も陸軍予備士官学校に入って、小野田寛郎少尉とは中野学校の同期なんです。もっとも終戦までは、兄が諜報機関の訓練をしていたということは家族といえど知らされていませんでした。


絵描きから舞台美術家へ軌道修正
 十六歳の時に終戦を迎えましたが、われわれ通信関係の候補生は自動的に逓信省の高等逓信講習所に官費入学させられた。兵舎も同じままです。しばらくして配属されたのが横浜電信局で、進駐軍関係も含む通信の仕事が中心でした。
 安定した生活を送ることができたんですが、絵描きになるという夢は捨てきれない。そんな悶々とした生活を送っていたある日のこと、早稲田大学に工芸美術研究所が新設され、学生を募集するという新聞広告が目にとまったんです。もう矢も楯もたまらず仕事を辞めて入学しました。研究所長は考現学の権威でもあった今和次郎先生で、ひとつの芸術分野にこだわらず、絵画、工芸、建築史、服装史など、あらゆる芸術を総合的に教育するシステムを構築しようとしていたんです。
 ぼくは、吉田謙吉という舞台美術家の講義を聞いてすっかり魅了され、夢は絵描きから舞台美術家に軌道修正。歌舞伎座や演舞場にもぐりこんでは大道具の手伝いなんかをしていました。ただ、舞台美術家ではとても食べていけないことに気付いたんです。日本の主な劇場は進駐軍に接収されていて、舞台美術家としての仕事がほとんどない状態です。そこで一計を案じました。GHQで舞台美術の仕事ができないかと考えたんです。無謀な話ですが、GHQ本部に出かけ、MPの立っている後ろをそうっと通り抜け、中に潜入しました(笑)。運良く日系人のおばさんが受付をしていて、「ぼくはアメリカに留学して舞台美術の勉強がしたいんです」と頼み込みました。そのおばさんが親切な人で、だったらあの人に相談してみなさいとくわしく教えてくれたんです。教えられるままに、進駐軍の住宅があったワシントンハイツに出かけ、その中にある劇場で演出家でもあったエドワード先生に弟子入りを直談判しました。するといきなり英文の台本を渡され、この芝居の舞台デザインを来週持ってくるようにと言われたんです。ぼくは必死に台本を訳し、とにかく舞台デザインを持っていきました。テストは合格だったらしく、それからは進駐軍関係の演劇やショーには自由に出入りできるようになりました。初めて美術助手としてお金がもらえた芝居も忘れられません。それは「ガラスの動物園」でした。ただ残念ながらアメリカ留学の話は実現しませんでした。


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