第1回 噺家 春風亭柳昇さん |
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●前座修業は人間修業 軍曹だったでしょ。最初の頃は楽屋にいても先輩たちが腫れ物にさわるようでした。なんかこわかったんでしょう(笑)。でも一生懸命やりましたよ。噺家の世界は一日でも先に入った人は年齢に関係なく先輩になる。私は軍隊にいたから入るのがおそくて、年下の先輩に「おい、お茶!」なんていわれてアタマにきたこともありましたけれど、いま思えばよい経験でしたね。四年間の前座修業というものはもうたいへんな修業です。人より早く楽屋入りをして、高座や楽屋を整え、太鼓を打ったり、お茶を入れたり、着物をたたんだり、プログラム通りに進行させたりと、それ以外にもすることが山ほどあるんです。初めて高座に上がったときはそんなに緊張しませんでしたね。新兵教育で何年も大勢の人の前でしゃべっていましたから(笑)。それと前座の先輩連中が下手に見えたんですね。こんな下手な連中がプロなら三月で追い抜いてみせるって。ところがやってるうちに下手だと思っていた人が、自分よりはるかにうまいということがわかってくる。自分と同じくらいだと思ったら向こうのほうがうまい。自分より下手だと思ったら自分と同じなんです。自分の録音を初めて聞いたときは、消えて無くなりたかったですね(笑)。 ●働いたうえに自分で金を出す もともと寄席に出るだけじゃお金にはなりません。だからほかで生活費を稼がないとね。それでもその頃の日記を読み返すと、大学卒の初任給ぐらいの収入はあったようですね。当時は闇成金の人たちが楽屋によく遊びにきましてね。焼酎もってきてくれたり、ついでにご祝儀もくれてね。ただ、私は家族が多かったから生活は楽じゃなかった。最初は高座で着る着物も帯もなかったくらいです。それでもね、先輩が着物も帯もくれるんです。それに「稽古をつけてください」とお昼頃ねらっていくと(笑)、「ご飯も食べていけ」とただで教えてくれるうえにご飯まで食べさせてくれる。弟子が売れても一銭も取らない。すごい社会だと思いますよ。そのかわりトリをとるとたいへんです。なぜかというと、寄席からいただいたその日の入場料は、トリをとった人が出演者全員に分配することになっている。でも客の入りが悪いときはトリの責任というわけで、自分のお金を足してまでみんなに分配することになっている。へんな分配すると先輩に怒られますしね。働いたうえに自分で金をださなきゃいけない。人によっては質屋通いですよ。どうしようもなくなって、東京から逃げ出した人もいる。 ●自分にあった芸を身に付ける 噺家は自分の師匠以外にも、いろいろな人に稽古をつけてもらいにいかなければだめです。いろんな人の芸を盗まなきゃいけない。師匠によって「ゆっくりやれ」という人もいれば、「もっとテンポよくやれ」という人もいる。要は自分にはどれが合うかを考えればいいんです。面長の人は人情話が合う、丸顔の人は滑稽話が合うなんてことをいう人がいましたが、噺家は自分に合ったものをやらなきゃいけない。でも、それにはいろんなものをやってから取捨選択していくしかないですね。それと弟子は師匠にあまり似てはいけないんです。そっくりだと連れて歩けませんからね。それで私は師匠から離れよう離れようとして努力してきたんですが、いま考えるとそれもよくなかった。芸はまず模倣から始まるんです。そして、いろんな人に稽古してもらいながら少しずつ脱皮していくんですね。それを私はうまい人のまねを一切しなかったんです。だからテレビ番組に娘と一緒に出たときのことですが、司会者に「お父さんの芸をどう思いますか?」と聞かれた娘は「なんかしろうとみたいです」と答えていた。理由はほかの噺家みたいに「毎度ばかばかしい」といわないからだって(笑)。 ●二ツ目昇進が一番うれしい 前座から二ツ目になったときは本当にうれしかったですね。二ツ目は一席終えればそのまま帰っていいんですから。兵隊のときのね、古年兵のいなくなったときのうれしさと同じですね。だから姑に死なれたお嫁さんの気持ちがよくわかりますよ。うれしいでしょう、きっと(笑)。真打昇進したときもうれしかったけれど、真打披露に必要なお金がない。それで上野・鈴本演芸場の大旦那に貸してもらった。私は三年かけてしっかり返したんですが、借金完済の日、大旦那にほめられたんです。「金を貸して踏み倒さなかった噺家はおまえが初めてだ」と(笑)。それでも私は運がよかった。日本におけるテレビの草創期とだぶっていましたから。テレビのおかげでどうやらご飯が食べられるようになりました。
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