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●小学校では級長だった 一九三四年,まだ日本の統治下だった台湾で生まれました。社会の公用語は日本語ですが,家庭では台湾語を使っている家が多かった。ですから学齢に達すると,大多数の台湾人の子どもたちはまず「公学校」に入り,そこで正式に日本語を学ぶわけです。また「小学校」というものもありました。これは台湾に住んでいる日本人や,台湾人であっても日本語を常用している教育熱心な家庭の子弟が入る学校です。 つまり日本語教育から始まる学校と,日本語には問題がなく読み書き算盤から始まる学校との,スタートラインの違う二種類の教育があったんです。小学校には約二割程度の台湾人の子どもたちが通っていたと思います。 私はまず公学校に入りましたが,日本語が良くできるということで,途中で試験を受けて小学校に転入しました。小学校に転入してからも軋轢は感じませんでしたね。いじめに遭った記憶もありません。結局は成績の問題だと思います。私はこつこつ勉強するのが苦手なんですが,小学校の頃はたいして勉強をしなくても良い成績でしたから。一年のときは級長をしていました。 日本人の先生に差別されたということもありません。むしろ贔屓されていたほうでした(笑)。習字の時間にふざけてものすごく教室を汚す子がいたんですよ。それで連帯責任だということで全員並んで立たされ,先生の持っている鞭でバンバン手を叩かれたんですが,私のところにきたらちょこっと叩くだけなんです。先生もクラスで一番できる子がかわいいんですよ(笑)。 ●本好きのじゃじゃ馬娘 私の家はそれほど教育熱心なほうではなかったと思います。父親は当時,商社マンとして中国大陸に単身赴任していて台湾にはほとんどいませんでしたし,母親はいまの私のように遊びほうけていましたからね(笑)。父親が大陸にいる間,母と私と妹の三人は母方の実家で暮らしていたんですが,この実家というのがお茶の栽培・製造から販売・輸出まで一手にこなす会社を経営していて,使用人が何人もいましたから,母としては何もすることがなかったんです。 唯一,母から干渉されたのは「本を読むな」ということです。私は本が大好きで,学校から帰るといつも本ばかり読んでいた。もう乱読です。家の中にある本なら何でもかまわず手当たり次第に読んでいた。おかげで宿題はやらないわ,ご飯といわれても見向きはしないわで,ついに本を読むことを禁じられてしまった。それでも押し入れの中でこっそり隠れて読んでいたんですが,妹が告げ口するっていうんですよ。それで妹を買収するわけです。「読んだら話して聞かせてあげるからね」って(笑)。 私は本好きがたたってか,もうめちゃくちゃませた子どもですよ。わがままで生意気で本当にいやな子どもだったと思います。「頭はいいかもしれないけれど,あんなじゃじゃ馬娘,誰も縁談なんか持ってきやしないわよ」と,子どもの頃から親戚一同にいわれつづけていましたからね(笑)。
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