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●小学校の先生に憧れていた 私は明治四十二年八月六日に,静岡市で生まれました。兄ふたり姉ひとりの四人兄姉の末っ子です。父は銀行員でしたが,私が六歳のときに亡くなりました。ですから父のことはよく覚えていないんです。母は四人の子どもを抱えてさぞ苦労したと思います。家計の足しにということでしょうか,二階に女子師範の音楽の先生に下宿してもらっていましたが,この先生がとても私をかわいがってくれて,「あなたは声がいい」と歌をたくさん教えてくださいましてね。おかげで音楽が大好きになり,小学校も女学校も音楽は甲をいただきました。 ただ,その頃は将来,女優になろうなんてことは露ほども思ってはおりませんでしたね。小学校の先生になりたいと思っていました。私の小学校は女子師範の付属で,女子師範から実習にくる教生の先生方がみんなすてきな方ばかりでしたから憧れていたんですね。 女学校時代は文学少女でした。勤めに出ている兄や母の留守番をしながら,兄の本棚から手当たり次第に本を引っぱり出しては読んでおりました。短歌好きの兄の影響もあり,短歌を作って講談社の「少女倶楽部」に投稿したところ,選者の窪田空穂先生がほめてくださり,図書券のご褒美もいただきました。その図書券で大好きな吉屋信子先生の少女小説を買ったことを覚えています。 ●伯父の家に養女に入る 女学校を卒業すると同時に上京しました。東京の伯父さんには子どもがいなかったので,私が養女にいくことになったんです。本当は姉がすでに養女に入っておりまして,跡取りになるはずだったんですが,望まれてお嫁にいくことになったものですから,急遽私にお鉢がまわってきたんですね(笑)。 伯父はある会社のエンジニアだったんですが,本業以外にも本郷の東大前で小さな旅館下宿と喫茶店も営んでおりました。私も家事手伝いといいますか,家業を手伝いながら長唄やお花を習ったりと花嫁修業に精を出していました。うちの店は場所柄,東大の学生さんが主なお客さんで,姉の許嫁が陸上部のキャプテンをしていた関係で,陸上選手たちのたまり場で,それはにぎやかでしたね(笑)。全国大会のときなどには日本中の選手が我が家に集まってきていました。試合当日は,姉と一緒に神宮外苑まで応援にかけつけ,選手たちの活躍ぶりに一喜一憂したものです。後年,オリンピックで大活躍された織田幹雄さん,西田修平さん,南部忠平さんも常連客でした。 伯父夫婦は,芝居が大好きでよく歌舞伎や新派の舞台に連れていってもらいました。六代目菊五郎さんとか水谷八重子さんとか,当時名優といわれた人たちの舞台はほとんど見ていると思います。私が女優の道を選んだのも,こんな下地があったからなのかもしれません。いま思うと,もっとよく見てお芝居のことを勉強しておけばよかった思います。当時は芝居に連れていってもらえるというだけでうれしくて,ただ,ぼやーっと見ていただけですからね(笑)。
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